戦争の足跡 ~シベリア抑留~


私の祖父の弟は戦争当時、シベリアで抑留され、命を落としました。
祖父は私の一族の長男。
そしてその長男である父。
その長女である私。
本家で生まれ育った私は、毎日、祖父、祖母、両親や兄弟、父より少し年下だったよくわからないお兄さんと一緒に暮らし、そして
成長しました。
田舎の本家にはお彼岸、お盆、お正月には決まって大勢のおじやおばが我が家を訪れ、笑顔に溢れる日本らしい家庭に育ちました。
そのため、歩いて5分ほどのお墓を訪れることや、家の中にある仏壇に手を合わせることは日常茶飯事。
父からは家系図があるという話も聞いたことがありますし、ご先祖様達の話などを聞くことももっぱら。

先日お盆のために里帰りをした私。
ある日の夜、父が1通の封筒を私に差し出しました。
「これをネットで調べてくれ」と。
その茶封筒は厚生労働省から、亡き祖父宛てに送られてきたものでした。
しかも2~3ヶ月前に。

その内容は戦死した亡き祖父の弟が死亡した際の詳しい情報が書かれたロシア語の書類を、国から手に入れるための方法が書かれていたものでした。
シベリア抑留の対象者は53,000人。モンゴル2,000人。
祖父の弟はシベリアで抑留された1人でした。
リストの中から祖父の弟の名前を探し、そしてどこで息を引き取ったのか分かりました。
それはとある病院でした。
少し調べてみたところ、その病院はまだ存在しているようです。



今後、私の父は、戦死した叔父の妹にあたる、まだまだ元気な実の叔母のために、そしてその本家の代表として、一度も会ったことのない叔父の詳しい死因や埋葬地を知るために、厚生労働省に書類を提出し、その詳しい資料を手に入れようとしています。



戦争・・・
私は小さな頃、祖父母と共に眠ることが好きでした。
眠りにつく前には3人が川の字になり、祖父母による物語が語られます。
そう、その物語とは祖父母が体験した戦争のお話です。
もちろん祖父も戦争に行ってはいましたが、南に配置されていたため、終戦と共に帰還することができました。
しかし戦火の中、海に飛び込み潜水艦に助けてもらったという話、傷の手当てを受けるために救護された場所で祖母と出逢った話など、戦争の残酷な話の中、祖母とのロマンスの話を混ぜてくれるなど、幼い私を気遣い、話の内容に華を添えてくれていました。
するといつの間にか、祖父母と一緒に眠りにつくことが楽しみになっていました。

実は祖母は赤十字の活動をしていたので、戦争中は救護にあたっており、その際に祖父と出会い結婚したそうなんです。
戦争は本当に残酷なものです。
多くの尊い命が奪われました。
しかし、その戦争がきっかけとなり祖父母は恋に落ち、今の私がいるのだと思うと、自分の命の重みを感じます。
そして”戦争はもう過去のことだ”などと軽視してはいけないのだと思います。

文頭に、私は”父より少し年下だったよくわからないお兄さん”と一緒に暮らしていたと書きました。
実はこのお兄さんは里子だったのです。
私の祖父母が3人(男の子2人、女の子1人)の子を引き取り、里親として育てることにしました。
そのうちの1人はまだ幼い頃、我が家の環境に馴染めず、残念ながら施設に返したそうです。
私の記憶にある父より少し年下のお兄さんはある日、突然我が家を離れ、それ以降音信不通になっています。
祖父が亡くなった時、私の父が悔やんでいました。
祖父は生前、突然出て行った”ヒロシ”に会いたがってた、だから会わせてやりたかったと。
そして父は言いました。
「きっといつかヒロシはひょっこり現れる」と。
私の記憶にある”ヒロシちゃん”は今どこで何をしているのでしょうか?
頭の片隅にある、ヒロシちゃんの面影が走馬灯のように蘇ります。

話は脱線してしまいましたが、シベリア抑留された家族をもつ一遺族の話でした。









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